利他の心を育む慈悲の瞑想                          竹腰重徳

  京セラ、KDDIを創業し、JALを見事に再建した稲盛和夫は、会社の経営理念として「利他の心」を掲げ、ビジネスを成功させてきました(1)。「利他の心」とは次のように述べています。私たちの心には、「自分だけがよければいい」と考える利己の心と、「自分を犠牲にしても他の人を助けよう」とする利他の心があります。利己の心で判断すると、自分のことしか考えていないので、誰の協力も得られません。自分中心ですから視野も狭くなり、間違った判断をしてしまいます。一方、利他の心で判断すると「人によかれ」という心ですから、まわりの人みんなが協力してくれます。また視野も広くなるので、正しい判断ができるのです。より良い仕事をしていくためには、自分だけのことを考えて判断するのではなく、まわりの人のことを考え、思いやりに満ちた利他の心に立って判断をすべきです。利他の心の重要性は、古くより言い伝えられてきました。仏教の世界では、自分と同時に相手のことを考えて行動することを「自利・利他」という言葉で表しています。自利とは自分の利益のこと、利他とは他人の利益を考えることです。つまり、自分が利益を得たいと思って行動することは、同時に他人の利益にもつながるべきだということです。相手が儲かるようにすれば、自分も儲かるそのことを「自利・利他」という言葉で説いているのです。

 世の中のすべてが他者とのかかわりの中で動いていて、私たちは常に他者との関係性なしには生きられません。他者の利益を無視した生き方では、結果的に自己に不利益になります。しかし、私たちの心の中では、常に利己と利他がせめぎ合っています。私たちはともすれば、利己的な心の割合が多くなってしまいがちです。これが、自己中心的な判断をし、周囲との軋轢を生じ協力は得られません。そのために私たちは、利己を抑制し、利他が心の中で多く占めるように心の訓練をする必要があります。それが、「慈しみ」を強化する訓練です(2)。慈しみとは、相手を大切に思い、大事にするということで、仲の良い友人といるときに感じるようなあたたかさであり、すべての生命は互いにつながっているという感覚です。何故慈しみが大切でしょうか。慈しみは人間が本来持って生まれた資質ですが、利己を生じる欲と怒りと無知の自我(エゴ)に覆い隠され見えなくなっているのです。そこでブッダは、2500年前に利己的な「自我(エゴ)」という硬い殻を壊し、慈しみで幸せに生きるための心の育て方の教えを作られました。その教えが「慈経(じきょう):慈しみの教え」で、その実践が「慈悲の瞑想」です。慈悲の瞑想をするときは「私が幸せでありますように」とか「すべての生命か幸せでありますように」といったような自分と他者の幸せを願う言葉を使って心を慈しみで満たします。しかし、慈しみの言葉は魔法のことばでありません。言葉を唱えるだけでは効果がありません。言葉ひとつひとつの意味を心から感じ取り、努力し、繰り返し実践することによって心は慈しみに満たされていくのです。そして慈しみのエネルギーを自分に、そして外へと向けていきます。慈悲の瞑想をすることで脳までも、実際に改善されるのです。慈悲の瞑想は、全く宗教性はなく、誰でもいつでもどこでも実践でき、利他だけでなくさまざまな次のような効果が脳科学的に実証されています(2)。

 スタンフォード大学やウィスコンシン大学など様々な機関の科学者たちが、慈悲の瞑想の効果についての科学的に実証しています。ある研究では、慈悲の瞑想をすると、やさしさや喜び、充実感、感謝、希望、興味などのポジティブ感情が高まり、これによって注意力や集中力、社会性など、さまざまな能力が向上し、その結果、心が満たされ、うつ病になるリスクが低下するのが示されています。また、共感や感情の知性(EQ)を司る脳の領域が繰り返し活性化され、灰白質の量が増加し、幸福感が高まることが示されています。さらにわずか10分間、慈悲の瞑想をするだけでも、心はリラックスし、健康が増進したという研究結果もあります。また、自己批判が減り、自分への思いやり(セルフコンパッション)が高まることも、別の研究で示されています。

 慈悲の瞑想の方法は、予め「幸せでありますように」など慈しみを願う言葉を作っておき、瞑想を始めます。まず、深呼吸を3回し、身体をリラックスさせて、心が落ち着いてきたら、普通の呼吸に戻り呼吸の動きに注意を集中し、そして慈しみの言葉を念じていきます。最初は自分の幸せを念じることから始め、次に家族、友人など親しい人々(生命)の幸せを念じ、そして一般的な見知らぬ人々(生命)の幸せを念じます。さらに、対象を私の嫌いな人(生命)や私を嫌っている人(生命)にも対象を拡げ、そして最後に生きとし生けるものの幸せを心に念じます(2)。心に繰り返して念ずることにより、心の習慣となり行動に現れるようになり、よい影響が直ちに現れてきます。



参考資料
(1) 稲盛和夫、なぜ経営に『利他の心』が必要なのか、稲盛経営哲学研究センター、開設記念講演会講話録、2015
(2) バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ、慈悲の瞑想、出村佳子訳、春秋社、2018

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