マインドフルネスと坐禅                       竹腰重徳

  マインドフルネスの普及に最も貢献し、この分野の第一人者のジョン・カバットジンは、「マインドフルネスとは、今という瞬間に意図的に評価をせず注意を集中することであり、この訓練より心が成長する」と述べています。これは、マインドフルネスが、「今ここ」に注意を集中いる状態であり、自分やまわりの人たちからの評価、判断、好き嫌いといった気持ちにとらわれず、自分の今の思考や感情や行動をありのままに観察し、受け容れている状態です。マインドフルネスの訓練は、瞑想による実践が重視されます。マインドフルネス瞑想では、まず注意集中力を高める「サマタ(止)瞑想」が行われます。まず注意集中力を高める瞑想法として用いられるのが、自分の呼吸に注意を向ける呼吸瞑想です。呼吸への注意が安定してきたら、徐々に注意の範囲を広げ、身体各部位、感覚、感情や思考に注意を向け、自分の感覚、感情、思考を客観的に観察して気づき続けるようにする「ヴィパッサナー(観)瞑想」(気づきの瞑想)へ拡大していきます。止の瞑想と観の瞑想を区別し、止から観へと段階を踏んで瞑想を発展していくのが、マインドフルネス瞑想です。マインドフルネス瞑想を実践することで、今までの習慣から沁みついた過去を悔んだり、未来に不安をつのらせる散漫になりやすい心(マインドワンダリング)の癖をなおし、今ここでの気づき、集中力、明晰さ、創造性、平静さ、思いやりを発揮できる心が育まれていきます(1)。

 カバットジンは、1960年代初期に、初めて日本の禅というものを教えてくれたのは、鈴木大拙で、その後鈴木俊隆著の“禅マインド ビギナーズ・マインド”に出会い、本格的に瞑想の精神を探求する道に足を踏み入れるようになり、日本の曹洞宗の創始者である道元の優れた思想にも大きな影響を受けたと述べています(1)。

 さて、マインドフルネス瞑想法と坐禅での瞑想法はどのようにちがうのでしょうか。
駒澤大学の小室央允が、坐禅の瞑想法をマインドフルネス瞑想との比較で、次のように述べています(2)。

 禅の瞑想法については、中国の坐禅の指導書のひとつである『天台小止観』において坐禅瞑想における止と観について記述がなされています。そこでは、止と観とを便宜的に分けてはいますが、止と観を別々の瞑想とするマインドフルネス瞑想とは異なり、止と観は瞑想の両輪であるとしています。そして、どちらか一方に偏った瞑想は邪倒に落ちるとしています。つまり、それぞれ別々の瞑想として行うのではなく、その両方の均斉の取れたものが坐禅であるとしています。ただし、注意が散乱する際には、自己の呼吸に注意を向けて、心の中で静かに息を数える「数息観」を行うのがよいとも記してあります。この数息観は、注意を安定させるので、止の瞑想の要素だけに注目されがちですが、止観の均斉の取れた瞑想を行う坐禅においては、観の要素も含んでいます。数息観の注意の向け方は、一生懸命に努力して一点に注意を向ける能動的注意集中ではなく、呼吸だけに集中していて、他の事に気がつかない状態ではありません。禅宗の一派である曹洞宗では、坐禅による瞑想が重視されており、ただ静かに坐るため、黙照禅とも呼ばれます。坐禅の際、注意が散乱する場合や、瞑想の初学者の導入法として、自己の呼吸に注意を向けて息を数える数息観を行うことがあります。しかし、それは本来の曹洞禅ではありません。本来の曹洞禅は、止であるとか観であるなどということにとらわれず、ただひたすらに坐る、只管打坐(しかんたざ)といわれています。

 曹洞宗の只管打坐のやり方は、駒澤大学教授角田泰隆の「道元『正法眼蔵』を読む」にも示されています(3)。その中で駒澤大学での坐禅の指導では、瞑想中「心に浮かんでくるものは浮かぶに任せ、消えるものは消えるに任せ、一切とりあわず、相手にしないで放っておく」と教えているそうです。マインドフルネス瞑想と坐禅は、方法に若干の違いはありそうですが、坐禅は、マインドフルネス瞑想とほぼ同様の効果、今ここでの気づき、集中力、明晰さ、創造性、平静さ、思いやりを育むことが期待できるとされています。


参考資料
(1) ジョン・カバットジン、マインドフルネスストレス低減法、春木豊著、北大路書店、2016
(2) 小室央允、禅とマインドフルネスとの比較(2)、ZEN,KOMAZAWA,1592、2019
  https://zen-branding.komazawa-u.ac.jp/contents/992/
(3) 角田泰隆、道元「正法眼蔵」を読む、角川ソフィア文庫、2024

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